日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

高平・ルート協定

日本の内閣が西園寺内閣から第2次桂内閣に変わり、1908年(明治41年)8月27日、小村寿太郎が外務大臣に就任した。この就任から1月ほども経った頃、小村外務大臣から駐米日本公使・高平小五郎に宛てた 「帝国の対米外交政策方針に関する件」と題する1通の機密書簡が送付された。いわく、

帝国は政事上に於いて米国との関係を親善ならしむる必要あるのみならず、同国が我が商業上の大華主国(=大顧客である国)たるの事実に鑑み、同国との親交は益々これを増進するを必要なりとす。然るに今や、米国政府及び同国民多数の帝国に対し何等悪感を有せざるに拘らず、同国に於ける少数人士の帝国の真意に疑いを挟み、殊にその声を大にして民心の扇動に苦慮せる事実と、或る強国が小策を弄して日米両国を離間せしむとするの事実は、これを否定すべきにあらず。

と言い、続けて、これを放置すれば和親に障害が生じ、排日論者の唱える移民問題も更なる葛藤に発展しかねないから、緩和の努力をすべきである。また「太平洋問題」も、適切な時期に米国と協定を結ぶべきである。この様に外交方針を明示し、閣議決定した対外政策方針を添付し、適切な時期に協定の交渉を命じたのだ。

この「太平洋問題」とは、アメリカにとっては1898(明治31)年7月のアメリカ合衆国によるハワイ共和国の併合や、同年12月のアメリカ・スペイン戦争の平和条約締結で領有に帰した太平洋のフィリピンやグアムの新領土がある。一方の日本は日清戦争の講和条約で領有に帰した台湾や澎湖列島、更にまた、日露戦争で日本に帰した朝鮮にからむ新しい権益があり、満洲に於ける権益等をも指したものだろう。

日米開戦か、と世界中の耳目をかき集めたアメリカ海軍の大西洋艦隊が、セオドア・ルーズベルト大統領の命令で1907(明治40)年12月16日、東海岸の海軍基地のあるハンプトン・ローズを出港した。この大西洋艦隊は南米のマゼラン海峡を通過し、サンフランシスコ港を経由し、翌年10月18日に横浜に寄航し、戦闘艦が14隻、通報艦が1隻というこの大艦隊は日本の大歓迎を受けた(「日米交渉五十年史」、大日本文明協会編、1909)。小村外務大臣はこの成功の機会を捉え、高平大使に 「太平洋問題」の交渉開始を指示している。

アメリカ合衆国の憲法上、諸外国との条約や取決めは政府の一存では決定できず、全て上院の批准を必要とする。従って緊急を要するアメリカとのこの 「太平洋問題」の合意も、時間のかかる条約ではなく、一方の政府から他方の政府へと相互に送付する外交文書で確認を取り合う方式が用いられたが、「協約」あるいは「協商」と呼ばれる所以である。既に本文で触れた如く、セオドア・ルーズベルト大統領と前大使・青木周蔵との間で話が始っていたから、ほぼ1月後の1908(明治41)年11月30日付けの日米双方からの文書交換で決着している。その5項目に渡る骨子いわく、

1、太平洋に於ける両国商業の自由平穏なる発達を奨励するは、両国政府の希望たり。(太平洋に於ける両国商業の自由)
2、両国政府の政策は何等侵略的傾向に制せらるることなく、前記方面に於ける現状維持及び清国に於ける商工業の機会均等主義の擁護を目的とす。(太平洋に於ける現状維持及び清国に於ける商工業の機会均等)
3、従て両国政府は、相互に前記方面に於いて一方の有する所領を尊重するの強固なる決意を有す。(太平洋に於ける両国領土の尊重、即ち安全保障)
4、両国政府は又、その権内に属する一切の平和手段により、清国の独立及び領土保全並に同帝国に於ける列国の商工業に対する機会均等主義を支持し、以て清国に於ける列国の共通利益を保存するの決意を有す。(清国の独立及び領土保全並に商工業の機会均等)
5、前述の現状維持又は機会均等主義を侵迫する事件発生するときは、両国政府はその有益と認むる処置に関し協商を遂げむが為、互に意見を交換すべし。(この現状維持又は機会均を阻む事件に対処する両国の意見交換)

こうして合意した内容は、日米双方政府より清国にも伝えている。
(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治41年」)

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07/04/2015, (Original since 09/30/2013)